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黒江の歴史

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和歌山県海南市黒江地区。

日本の漆器四大産地(他、会津漆器、越前漆器、山中漆器)のひとつとして室町時代より「紀州漆器(黒江塗り)」の生産地として知られ、江戸時代には藩の保護を受けて大きく栄えました。

​漆器の繁栄とともに手狭となった黒江地区は徐々に埋め立てられ、現在の区画を形成していきます。

黒江地区は広域には黒江に加え岡田地区(の一部)、船尾地区を総じて「黒江地区」と呼びます。

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区画を埋め立てていく過程で直線ではなくギザギザした町並みが形成され、その独特の形状から「のこぎり歯状の町並み」と呼ばれるようになりました。

このような形状になった経緯については、当時埋め立て前の川があり、船を係留するため斜めに民家を建てた、当時区画を形成する際、直線に切り開くことが困難だったため敢えて斜めにした、漆器を運ぶリアカー置き場を確保するため斜めにした、などの諸説があります。

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京風な街並みが今も残る黒江では、以前から軒先でメダカを飼う習慣があり、情緒ある風景を醸し出しています。

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​池庄漆器店にて紀州漆器を手に取り眺める女性。着物と漆器がよく似合う

​紀州漆器は室町時代紀州木地師によって渋地椀が作られたのが始まりと言われ、根来寺僧侶達が寺用の膳・椀・盆・厨子などの什器を自ら作った(根来塗)のも紀州漆器の起源の一つとされています。

その後、豊臣秀吉によって根来が攻め込まれた際、難を逃れた僧が海南市に移住、漆工に従事。

江戸中期には紀州藩の保護を受けて盛大に広まったといわれています。

明治時代に入り紀州藩の保護を失ったことから紀州漆器の衰退が危惧されましたが、明治3年に貿易を開始したことから衰退の危機を脱し、明治16年には日本から輸出された漆器の57%を紀州漆器が占めました。

その影響からか当時海外では漆器を「KUROE」と翻訳していたといわれています。

 

また、他府県の沈金彫の導入や京都の蒔絵師の招へい、昭和には天道塗、錦光塗、シルク塗などが考案されるなど、紀州漆器は絶えずその技術向上に努めます。

昭和24年、黒江は重要漆工業団地として国より指定をうけ、さらに紀州漆器は昭和53年2月通商産業省より「伝統工芸品」に認定、現在に至ります。

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窓枠に設置されている連子格子

プライバシーを保護しつつ外の様子を伺える

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折り畳み式椅子こと「ばったん床几」

囲碁を楽しんだり野菜の販売などに使用。

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2階が奥まった「つし2階」

​主に江戸時代の民家で採用された

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中庭の池でメダカ

鯉に比べて大きな池は必要ないので維持しやすく風流

黒江地区は今も京風な町並みが至る所に残っています。

外からは見えにくく、内側からは外の様子が伺える「連子格子」

現在でいうマジックミラーの役割を果たしています。

「つし2階」と呼ばれる、1階に比べ奥まった2階。

平民が「武士を(2階から)見下ろしてはならない」ため主に江戸時代の民家はつし2階方式を採用。

倉庫として利用したり、使用人の寝泊まりに使用されたといわれます。

黒江では少し変わった利用方法がなされました。

国内では四国地方、中でも現在の愛媛にあたる伊予の行商人による紀州漆器の買い付けが多く、漆器問屋の2階を行商人の宿泊施設として機能していたといわれています。

ばったん(ばったり)床几と呼ばれる折り畳み式の椅子

将棋や囲碁を楽しむいこいの場、野菜などの販売テーブルに利用されました。

軒先だけでなく、古民家の中庭に小さな池を作りメダカを飼っている方もいます。

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白く分厚い昔の防火壁「うだつ」

元来は暴風対策や隣家からの延焼を防ぐ目的で使用されていましたが、江戸時代中頃になると自己の財力を誇示するべくこぞって装飾的なうだつを建築物上方に設置。

うだつを「上げる」には相応の出費が必要で、うだつを上げる財力のない平民にとって「生活や地位が向上しない」、一説ではこれが転じて「うだつが上がらない」の語源になったと言われています。

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